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日本における高利貸しの登場
日本での貸金業の始まりは、お金(銭貨)の誕生と同時に発生したとされています。古くは律令時代(7世紀後半から10世紀頃)に遡ると言われています。
お金の誕生と同時に登場したという事は、日本最古のお金である富本銭(ふほんせん)が作られた西暦683年から金貸しは存在していたということになります。
律令時代~
7世紀末から8世紀の日本は、中央集権的な律令国家を目指し、中国(唐)の諸制度を導入していましたが、その中の取り組みの一つとして銭貨を発行しました。
7世紀後半には、日本最初の貨幣である富本銭が作られています。日本における貨幣の誕生とともに、貸金業は登場したと考えられています。
この律令時代の頃に、朝廷が貸金業を行なっていた記録が残っています。
私出挙
私出挙(しすいこ)とは、奈良・平安時代、個人所有の稲・酒・金銭などを貸しつけて、利息を取る制度のことを言います。
ちなみに、私人が貸し付けるのは私出挙ですが、国が貸し付ける制度のことを公出挙 (くすいこ) と言います。
公出挙は、国衙(こくが)の役人が貸し付け、その利息分は国司と呼ばれる、朝廷から諸国に赴任させた地方官が自由に処分できるというものでした。
平安時代~鎌倉時代

無尽銭土倉
平安時代には、無尽銭土倉(むじんせんどそう)と呼ばれる裕福な僧侶達が、延暦寺などの有力寺社の保護のもと、無担保で高利貸しを行っていました。
鎌倉時代末期頃になると、無尽銭土倉は、預けられた財産を担保の質物として金銭を貸し出す形態の金融業者の名称として使用されます。
鎌倉末期の無尽銭土倉は、堅牢な土壁の倉庫を屋敷内に持つ商人が、天災や盗難等から財産を守る目的で預託金と引き換えに保管するという形態を取っていました。
借上人
また、宋銭が広く通用するようになった平安時代後期(12世紀以後)の頃から、借上・借上人(かしあげ・かしあげにん)と呼ばれる高利貸付行為を行う金融業者が現れました。
借上人もまた、寺社に属する僧侶や神人がこれに関わる事例が多かったと言われています。
借上人は、取立人としての側面も持ち、朝廷ですら年貢の取り立て業務の請負に起用する場合があったようです。
鎌倉時代に入るとさらに借上の存在感は大きくなり、替銭(為替業者)・問丸(倉庫業者)と並んで港町における代表的商人として地位を確立していました。
所領経営に苦しんだ御家人に対して、所領や武具などを担保に貸し付けを行うこともあったようです。
借上人は、返済に困窮した御家人から土地を接収する事例も珍しくなかったと言われており、鎌倉幕府は、借上人が御家人から土地を入手する行為を禁じる法令を度々発しました。
南北朝時代になると、土倉と呼ばれる貸金業者が登場します。
それ以降、貸金業者は土倉という呼称で統一されることになります。
鎌倉時代後期~室町・安土桃山時代

土倉
土倉(どそう・つちくら)は、現在の質屋のように担保として物品を質草として預かり、その質草に相当する金額の金銭を高利で貸与するという形態の金融業者です。
鎌倉後期に登場した無尽銭土倉と同じ形態を取るため、これらの総称として世に浸透したものと考えられます。
中世に入り、貨幣経済の発展とともに、私出挙(しすいこ)は本格的な貸し金業である土倉へと進化して行きました。
酒屋
酒屋は、土倉などと共に日本の中世における金融業の通称として使用されます。酒屋が副業として営んでいたことが多かったことから、このような名称で呼ばれることになったようです。
酒屋は、市中に大きな店舗を構えて商店を営む豪商としての側面だけでなく、土倉などの金融業や、荷送りなどの流通業といった様々な業種を扱っており、現代の総合商社としての顔も持ち合わせていました。
室町時代中期以後になると、酒屋は、弱体化した室町幕府や経済的に困窮した朝廷に対しても、お金を貸し付けるようになり、政治的にも大きな発言力を有していたようです。
しかし、土倉や酒屋は、金貸しと言う性格上、民衆から恨みを買いやすく、徳政一揆で襲撃の対象となっていました。
金融業を営むことなく、純粋に醸造業と酒の販売だけに専念する酒屋に関しては、造り酒屋と呼んで区別されていたようです。
日銭屋
室町時代中期以後になると、土倉や酒屋に対するカウンターとして、日銭屋(ひぜにや)と呼ばれる金融業者が登場します。
日銭屋は、高利、小規模資本で営業を行う点が特徴の貸金業者で、利息を日歩で取ったことから、このような呼称が使用されたようです。
日銭屋の金利は、当時の土倉や酒屋にみられる金利(4~6%)より大幅に高い、月に10%以上を取るという高金利でした。
そのため、利用者の多くは、土倉や酒屋に比べて短期・零細がメインだったと言われています。
江戸時代

さらに貨幣経済が発達した江戸時代になると、多種多様の高利貸が現れます。
座頭金(盲人の貸金)、日なし・日銭貸し(日々返済する)、烏金(からすがね)(一夜明けが期限)、百一文(朝百文を借り夕に百一文を返済)、名目銀(社寺の貸金)、素金(すがね)(質を取らずにお金を貸す)、日済(ひなし)(日済し金を貸すこと。また、それを商売とする人)、などの高利貸しがその代表的な存在です。
当時の質屋の年利は48%程度だったと言われていますが、素金に関しては年利で60%~100%だったようです。
また、質屋を利用しようにも担保となる質草が無い下層庶民は、日銭貸し・鳥金などを利用していたようです。
日なし・日銭貸し
日なし・日銭貸しは、その名の通り、利用者に日銭を貸し付け、その日の夕方に1%を付けて返済させるというものです。
日なし・日銭貸しの金利を、年利に計算すると365%にもなります。
烏金
烏金は、一昼夜を期限として高利で金を貸す業者のことを言います。
利率は1日に2,3%~10%と高金利で、借り入れた翌日の早朝までに利息と元金を返済する決まりでした。
日銭商売を営む零細個人事業主等や芸人などが、当日必要な金を借りて翌朝に利息をつけて返済していたようです。また、吉原遊びや賭場の資金としても利用されていたと言われています。
1日1割と考えた場合、これを年利に換算すると3650%にも上ります。
江戸時代にもあった法定金利
江戸時代には、このような貸金業者の存在が記録されているだけでなく、幕府が法定利率を定めていたことが明らかになっています。
1714年から1841年まで、貸金業者に定められた上限金利は、年率15%程度だったようです。その後、幕府は1842年に法定利率を年率12%にまで引き下げています。
このように、高利貸しに対して、江戸幕府は何度か禁令を出しましたが、その後も高利で貸し付けを行う業者は、姿を変えて蔓延り続けたようです。
政府が定めた法定金利を超えて貸し付けを行う者、つまり、今で言う闇金融は江戸時代にも存在していたことになります。
このことからも、「いつの世にも悪は絶えない。」ということがよく分かります。